2020.10.28 (水)
第5回
場所:ROOM302(3331 Arts Chiyoda)
“つくること”への思考を広げる振り返り回
今回はこれまでのスタディを、“つくること”をキーワードに振り返ります。メンバーがそれぞれにまとめてきた“つくること”に関する言葉を話題のきっかけとして、思考を広げていきます。
「これまでのスタディを通して、つくることは見えない部分をかたちにすることや、可視化するようなことかもしれないと思った。自分が思う普通を疑ったり視点を変えることによって、つくっていたと思う」という髙橋の“つくること”に関する気付きから広がったのは、ゲストアーティストの“つくること”に関する印象的な言葉について。
「トチアキさんが作品をつくるきっかけとして使った3つの言葉(作品とは境目に現れるもの・それ以外のすべて・スリップさせる)が印象的だった」「普段、作品をつくるときに視点をずらすことを“スライド”という言葉で表現するけど、“スリップ”というと自分の意思から離れている感じがして、自分の感覚により近いと思った」「可視化しているのは、見えない部分というよりも“見えていない”部分に近いかもしれない」
「地理人さんは自分のつくった空想地図に対して、測量が甘い部分があるから修正を加え続けると言っていたけど、空想都市自体が実在しないので、測量が甘いも何もないという矛盾。でも、地理人さんが感じる“不正確さ”が、地図を更新し続ける原動力になっていると思う」
トチアキさんと地理人さんのワークの振り返りを経て、メンバーはつくるとは?作品とは?という視点を強くもちはじめました。そして以下のようなコメントが浮かび上がってきました。
「作品とは何だろう。家に置いてある未発表のものも作品と呼べるのだろうか」という小野の疑問に佐藤が「自分だけでも作品だと思っていれば作品である一方で、外から評価されると他者からも作品として認識されるようになるのではないか」と応答すると、アーツカウンシル東京の森(東京プロジェクトスタディの母体である『思考と技術と対話の学校』の元校長)から、“つくること”とその結果生まれる作品についてコメントがありました。
「作者自身が〈いい〉と言っても、他人は勝手に〈だめ〉と言う。その居心地の悪さやズレを埋めるためには、継続してつくることが必要。作品の位置関係は自分の行為でつくっていくしかない」「作品ってなにか、という問い自体に苦しまなくていい。トチアキさんが初日に急に踊り出したときのように、自信をもってやれば(例えばそれがおにぎりを食べるだけだったとしても)美しく見える」「誰もが表現をしている。それを切り取って再現したいかどうかが、作品と呼ばれるものとそうでないものの境界線。再現したいものを恒常化してやっているとアーティストと呼ばれるようになる」
アートマネジメントの立場から数多くの“つくること”を見てきた森の話をきっかけに、その後は“つくること”とそれを受け取る人についても議論しました。
「作品を出すとき(手料理を出すとき、毒になったら…みたいな感覚と似ていて)怖いと思うことがある」という齋藤の“つくること”に対する不安の話からは、作品が孕むエネルギーについての話題に。
「作品があれば力が働く。エネルギーが集約されれば暴力的になることもある。取り扱いを間違えて暴力にならないようにマネジメントすることが必要」「美術館という限られた場所とまちなかでは、許容される居心地の悪さも違うと思う」「居心地の悪さを感じたひとの記録も語り継いだ方が良い」
と、つくることや作品が孕むエネルギーは、立場や考え方が変われば暴力と捉えられることもあることに話が及びました。また、“暴力”を“居心地の悪さ”と言い換えることで、少し違った角度からそのエネルギーを考えることもできそうです。
“つくること”とはどんな行為なのか、つくることによって生まれる作品とは何なのか、作品がもつエネルギーとの付き合い方、つくるときの手の動かし方や原動力など、それぞれの疑問や話題に明確な答えを出すわけでもなく、ナビゲーターやスタディメンバー、スタディーマネージャーや元校長がそれぞれの経験や考えを交わし、さまざまな方向に思いを馳せた2時間となりました。次回のスタディは3日後。大和田俊さんとのワークショップで、またも“つくること”に挑みます。
Text=堀切梨奈子
Photo=冨田了平