2021.1.10 (日)

第8回

場所:Zoom

わかりやすさ/伝わるはやさだけにとらわれない言葉を味わう

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2021年1月10 日、緊急事態宣言下のためオンライン会議ツール「Zoom」を使用し第8回を開催した。ゲストは歌人の伊藤紺さん。手話通訳には米内山陽子さんと田中結夏さんを迎え、詩的言語の可能性に触れた。

「言葉は、身近すぎるコミュニケーションツールで、わかりやすさや伝わるはやさが重視されやすい。でもそれだけではないと思うんです。伝わる範囲がせまいけれど、届いた人の脳内に鮮烈なイメージを描けるものや、身体にじわーっとしみてくるものもある。

普段、社会で使う言葉からこぼれおちてしまうような気持ちやイメージを考えていければと思います。詩的言語の自由さと豊かさを味わう時間にできたら」

伊藤さんは、冒頭にこう共有する。そしてまず行ったのは、いくつかの短歌を読んで、話し合うワークだ。5つの短歌がZoomの画面上に共有され、ビデオをOFFにして読み、読み終わったらONにすることが伝えられた。

しばらくすると、ビデオがONになり、それぞれが読んだなかで気になった歌と、そこから考えたことについて喋る時間を過ごした。

短歌にある一つの単語から、それぞれ違う解釈が生まれること、想起されるものが違うこと。それぞれ感じたことの共有から触発されて発見されるものがあること。そもそも、どんな状態が「短歌を読んだ」と言えるのか、その歌を、どの部分で区切って読むのか。どこにどの単語の意味がかかってくるのかによって印象が変わるのはなぜか。正解を求めるのではなく、それぞれに湧いてきた感覚に近い言葉を味わうための準備体操をしているようだった。

続いて行ったのは、「あなたの『よろこび』はどこから?」と名付けられたワーク。

「感情がどこから湧き出るのか、胸に感情が直結すると言われるけれど、自分の実感に近いところで表現してみてください。まずはよろこびはどこからくるのか?」伊藤さんはこう共有する。

メンバーはGoogleドキュメント上に、匿名の状態で書き込んでいく。

「よろこびに背中を押される」「耳のうしろから生まれる」「顔の真ん中めがけて飛び込んできて、尾骶骨に到達します」「指がしびれる」「よろこびが腰を支える」「よろこびは、頬」「手のひらから、二の腕をじんわりふるわす」「喜び:首筋のあたりからワァー!って感じ。手塚治虫のマンガの『ワァー!』の感じ。歓び:身体を覆う1枚の皮(表皮)がびりびりする。悦び:天空の彼方からじっくりとくる。でも胸骨の内側でオイルがじゅわっと溶ける感じもする」

よろこびを感じていた瞬間を探し、そのときの身体の状態を手繰り寄せる。「よころび」と呼んでいる感情と身体の結びつきを眺め、言葉にしていった。

さらに自分の身体感覚に近づいたメンバーが行ったのは、「短歌をつくってみる」。伊藤さんは、次のように補足する。「思いつかなければ、ワークで出てきた表現を使ってみてください。また字余り、字足らず、句またがり、なんでもありです」

もう二度と 会いたくないと思うほど 愛しすぎてる イデアのあなたを

白い空 黒い軌跡が並びゆく、横にあなたが読む歌がある

新しいパジャマを洗わず着て 布団にころがる君から ユニクロのにおいがするよ

明日には 晴れるかしらと 爪の先 みつめて反射をたしかめる

部屋の中 いたるところに君がいて バファリンすらも味方な気がする

すこし寝て おきて食事を作る母 黒いスカートは すこしおやすみ

エンジンと 波しぶきにかき消され 彼方の海の きみの声をきく

あ…と声がもれて 視線の先は 水たまり テーブルの角から 水がこぼれゆく

寒いよね そう言い合って また寒いと 寒いの言葉が 不思議とあたたかい

「もう一軒…」頬を染めて伝える報告、わたしの中にひろがるあわ玉

発売前の本、生かされた絵をよんで、あぁ終わったのだと、おしぼりで顔を拭く

ふわふわの白と茶色と薄茶色 散歩と昼寝と まるさんかくハート

提琴の音 から響けし光の粒に 94年の手土産と翔ぶ

手のひらで、つかむ光通り抜け、たしかに伝わる温度、隣りと

ひたいつけ ぎゅぎゅぎゅぎゅっんと 流れる 尾から尾へ よろこびつながる

歌おう、と広がる海を見つめてる 握った拳の白い温度

ある夜に窓辺の彼女が呟いた わたしはヤモリ あなたはなあに

限られた時間のなかで、さまざまな歌がドキュメント上に書き込まれる。そして、冒頭のワークと同様に歌から感じたことをメンバーそれぞれが語り、あっという間にときが過ぎていった。

「短歌を解凍していくなかで、それぞれが大切にしているものがどうしても滲み出てきてしまう。こんなに個人が感じられるんだと、あらためて思いました。ありがとうございました」

最後に伊藤さんは今日のワークの感想を、メンバーに共有し、第8回のプログラムを終えた。

あるメンバーは、第8回を振り返り、次のように日誌を残した。

「歌を詠んだのは3年ぶりか、それくらいで、今日は痩せ細った自分の感覚に、少し落ち込んだりした。私は表現に関わり続けて、これからもきっと生きていくだろうけれど、自分の表現というものを開くことがけっして上手くない。時間がどうにもかかる。やっかいで時々嫌んなっちゃうけど、今日のこの感覚を私はしばらく反芻してしまうんだろう。しつこくてしぶとくて、ときどき悔しくって考えていくんだろう。そしていつか、私はストンと腹に落ちて、やっと語り出せるときが来るはず。そう信じていたい。でもまぁ、語れないときはそのままで良いんだ。今日から数えて1000日後くらいに、私はどこかで、一人、歌を詠んでいる。その日は、きっと雲ひとつない晴天で、眩い冬の朝の空気のなかで、鼻頭にキンと冷えた空気が通るときに」

今回のワークを機会に、短歌を詠みはじめたメンバーもいた。そのことを伊藤さんに伝えると、後日こんなお便りが届いた。

「その後、短歌を作っている方もいらっしゃると聞いて、ものすごく嬉しく思っております。

今回は短い時間だったので、短歌は本当に自由に作ってもらったのですが、もっと短歌を知った上でもぜひぜひ作ってみてほしいです。例えば、お伝えできなかったことで言えば、『短歌は、人の体温に一番近い詩型』みたいな話があります。新聞に『新聞歌壇』があって、短歌が何十年も掲載され続けているのは、短歌は大きな事柄を扱うメディアが無視せざるを得ない『温度』を、拾ってくれるからという意見もあるんですね。

他にも、真実のために嘘をつく、という考え方もあります。自分にとって大切なキーホルダーを落としてしまったことを短歌にしたいとき、落としたものは本当にキーホルダーである必要があるのか一度立ち止まる。大切なキーホルダーは、なんで大切だったんだろう?お守り? 大切な人からのプレゼント? 思い出の詰まった品? 31字で言えることはすごく限られる。キーホルダーを落としたことが事実だったとしても、短歌で伝えるべきは、事実ではなく自分の真実。お守りとしてのキーホルダーなら、むしろ胸の近くにつけるネックレスのほうが、真実に近いかもしれない。真実に近づくためなら、どんどん事実に嘘をつこう。というようなことです。

制作期間を数日とれるような場合にはこういう話をしたりもいいなと思っていたのですが、でも、こういう話をして作るものと、今回のように本当に自由に作ってもらうものはやっぱり全く別物ですし、こういうことをお伝えせずに体験できたら、と思っていたので、今回は、お伝えする前にできて本当によかったです。

(中略)

ワークの終盤『(短歌には)人が出ちゃう』という話をしました。でもそれは、作者自身と作中主体が同じということではないです!作中主体に何をさせるのか、何を感じさせるのか、というところに作者が出ると思っています。

そして、よかったら、みなさま、短歌をぽつぽつ書いてみてください。

江戸時代の国学者である富士谷御杖は歌について、『鬱情』を託すものだと言いました。後悔や教諭の歌に見えても、後悔や教諭そのものではない。後悔するに耐えられない気持ち、教諭したいという思いを『慰める』ために詠む。後悔したから、教諭したいから歌を詠むのであれば、それは幸を求める行為になり、『やがて真を失う』と。

少しうーん、という気持ちもありつつ、でもわかるなあという部分もあり。鬱情というと暗いですが、かたちのない感情やイメージそのもののこと、それを慰めるために言葉を書く。書くことで心の中の形なきもやもやが言葉に移り、それは言葉の中で一生、生き続ける。そういうものだと思っています。また何かでご一緒できたらとてもうれしいです〜!ありがとうございました!」

Text=木村和博