2019.4.20 (土)
場所:小金井アートスポット シャトー2F
そして、またあるきはじめる
何にでも終わりがくる。このスタディだけが例外なはずはない。だから、我々は精一杯やっていたような気がする。このお祭りめいた展覧会が終われば、また一人ひとりが日常へと戻るのだ。スタディ5でそれぞれが得た視点を秘めつつも。
8日間の展覧会は、かなりの盛況ぶりだった。といっても、私自身は土日しか参加できなかったのでそう見えていただけかもしれない。最初の土曜日と、最後の日曜日までの一週間で、会場であるシャトー2Fは印象を更新していた。初めのうちは何か、互いが主張していたのだが、まるで人や生き物が老成するようにして、全体の雰囲気は丸みを帯びていった。
金丸泰子さんはご自身の仕事で関わりがある、障がいを持っているお子さんと一緒に参加した。彼の絵は力作だった。敢えて批評を加えることが憚られるほどに。辻隆公さんは最後まで未完となった大作を作り続けていた。イベントや対談が行われた。スタディ5は花を咲かせ、結実し、そして少しずつ散りゆくのが手にとるように理解できた。私にできることは、その種子を自分自身を苗床にして受け止めるだけだった。想像だが、ほかのメンバーも同じではなかっただろうか。
このレポートを書くにあたって、本来なら展覧会自体のことを書くべきだと分かってはいた。だが、たぶんそれは何か違う。もしそうすれば、一個の完結したナラティブになってしまう。スタディ5はまだ完結しておらず、種子は今私の精神に、所作に、細くもしっかりとした根を張りつつある。物語と歴史は違う。物語は終わるが、歴史は終わらない。私は、スタディ5をささやかながらもひとつの歴史として引き受けたい。
スタディ5に参加する前、私はいつも言いようのない徒労感を抱えていた。自分が何かを積みかねようとしても、さらさらと砂のように流れていってしまう。あるいは、21世紀のグローバル社会が、怒濤となり押し流してしまう。そう思っていた。
だが、このスタディで多くのことを学べた。沖縄に行った精神科病棟の長期入院患者さんたち。アチェの内戦の悲劇を癒やす演劇。東北という、国内なのにいままでどこか遠い印象だった土地。そして、スタディ5に一緒に参加していたメンバー。みながその場でその場をよくしようとしている、あるいは押し流されないように踏ん張っていることが感じられた。彼らからは学ぶ一方だった。
スタディ5を通し、私は変化したと思う。それは成長とか自己啓発とかいったものではなく、単にほかの人たちへの敬意が、ほんの少しだけど増したのだ。それくらい、以前の私は傲慢だった。あるき方、み方、きき方を見様見真似で学んだ。ここで得たやり方でまたあるかなくてはいけない。あるき続ければ、スタディ5は終わらないだろうという予感があるから。
Text=吉立開途