2020.1.11 (土)
第8回
アーツカウンシル東京
最後の活動日、それから
いよいよスタディ1最後の活動日。これまでのスタディを経て書き上がった各メンバーの最終エッセイをじっくりと読む時間を取り、フィードバックを行った。
最初のエッセイから大きく書き方が変わったひと、書き方を踏襲しながらことばを掘り進めていったひと、対話の形式や詩のような書き方で書いたひと。それぞれの「核」(「書く」という行為)を掘り下げながら、自由にことばを紡いでいた。
途中、あるメンバーのフィードバックの際に、石神から「なにかを記述するということがすでに恣意的だ」という話が出た。いかにニュートラルであろうとしても、それはあるひとつの“ニュートラルさ”でしかなく、視点には常に偏りがある。物事は一面的ではないし、いろんな視点からみることで焦点が合ってくる。対象物だけではなく、「眼差し」自体を共有することで、受け手が、自分がみているものを一方的に受け取る存在ではなく、いっしょにみるという視点になり、記述や観察の場がひらかれていく。自分の偏りをだれかに共有することによっていっしょにみることができる――自分の偏りを発見すること。それがアートプロジェクトだったり、他者だったりをみつめる「眼差し」の第一歩となるのかもしれない。
また、他のメンバーのフィードバックの際には、“物語性=演劇性”についての話が出た。演劇の良いところは、水をお酒のフリをして飲んだときに、それがお酒か水かわからないということではなく、「水です」と言って飲んだとしてもそれが水かどうかわからないことだと石神は言う。「ほんとうに大事なこととか、自分にとってものすごく真実なことを伝えることはとても危ないことだったりもして、相手も自分も傷つけることもあって、そのまま出せないというときに、これが水かどうかわからないということによって、安全な場所でほんとうのことを話せるということがある」。物語性/演劇性を担保することで安全な場所を読み手と書き手の間につくることができ、だからこそ本気で聞ける。事実というのとは別の場所で“ほんとうのこと”を伝えられるという。
思えば、メンバーそれぞれの「真実なこと」をずっと探りつづけてきた半年間だったように思う。何度も自分の書くことばと向き合い、お互いにエッセイを読み合ってフィードバックを行い、さらに書きつづける。その行為の連続が、各々の視点や問題意識、ほんとうにやりたいこと、ひとと共有したいことを少しずつ「みえる」ようにしていった。「書く」ことは「核」に触れると同時に、「核」を「みえる」ようにする/「みえる」ようになることなのだろう。「アートプロジェクトを記述する」というサブテーマからは離れつつ、しかし確実に、メンバーたちが重ねた時間は「アートプロジェクト」をみつめる「視点」になっていったのだと思う。そして、このスタディ自体が、それぞれの“ほんとうのこと”を語り合える場として機能していたのだと思う。
もちろん、この半年間でメンバーがすべてのことを曝け出したわけでもない。「ことばにすることでなくなってしまうこともある。書かなかったことや書けなかったこと、自分のなかにある秘密を持てることが良い。書いていないこと、ことばにいまはしたくないものを大事にする姿勢がこのスタディではあった」とスタディマネージャーの嘉原が最後に言ったように、語らなかったこともまた、「記述する」という一連の行為のなかに含まれていたし、書かれなかったことばが書かれたことばをより一層豊かにしていたのだと思う。メンバーがこの半年間で書いたことば、書かなかった/書けなかったことばたちが、今後どのように育まれ、かたちになっていくのか……スタディはまだまだ終わらない。
Text=高須賀真之